あれから17年

あれから17年がたちました。もう震災メモリアル報道で泣かなくなりました。やがて記憶も薄れていくのだろうかと思います。けれどこの日を迎えると、あの時の空気までも蘇ってきます。
もう記憶というより、体の一部になってしまっているのかもしれません。

震災のことは一度別管理のブログで記事にしました。このブログでも残しておきたいと思い、以下に転載します。
2010年1月17日に投稿した記事です。

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16回目の1月17日を迎えました。今年は15年目というメモリアルだからか、日曜日にその日を迎えることもあってか、テレビなどのメディアもこぞって特集を組んだりしています。また様々な追悼祈念行事も神戸のみならず、被災地で行われています。
被災者として、この震災報道または特集というものが好きになれません。意識的に見ないようにしています。

昨年は祈念式のある神戸三宮の東遊園地に5時半頃から行き、祈りを捧げている人たちに自分がまるで第三者のようにカメラを向けていました。
今年はそれすらできませんでした。前日、妻から「明日は東遊園地行くの?」と聞かれましたが、どうしてもそういう気になれませんでした。
前日、わさと夜更かしをして、5時46分に間に合わないように、睡眠をとりました。震災がニュースで取り上げられることに何か違和感を感じているからです。さだまさしさんの曲に「さよならにっぽん」という曲がありますが、そこに風刺的なこんな歌詞があります。「・・思い出したように地震の被災者の背中をかすめていくマイク・・」。震災当時、連日報道されていた震災関連ニュースはまもなくオウム事件のニュースに変わりました。当事者にとっては『思い出したように』では済まないのです。この震災のみならず、です。。。

その日はとても寒い日でした。寒い日でしたという書き方は適切ではありません。寒かったそうです。寒さの記憶など全くありません。夜が明けるまでは静寂感だけがありました。夜が明けてくるとともに、あちこちで火の手が上がり、轟々と炎の音が聞こえてきました。水道が出ないので初期消火すらできません。
燃えている家の住人に向かって消防隊員が、「水が無いので放水できません。諦めてください。」と大声で叫んでいます。それでも彼らは海から水を引こうと走りまわっています。近所の様子を見に回っていると、友達の家がすでに燃えた後でした。消防車のサイレンと建物の燃える音が入り乱れ、人が走り回り、そして立ち尽くしていました。

一度家に戻ってきたとき「親父の家、どうもないやろうか。」と突然父がいいました。祖父は一人暮らしでした。自転車で15分ほどの距離のところです。急いで父と妹と三人で駆けつけました。ひと目見た瞬間「駄目だ」と思いました。木造住宅の二階部分が完全に潰れています。祖父は一階で寝ているはずです。押しつぶされている玄関から奥に向かって少し隙間がありました。そこから声をかけます。何度も呼びかけます。聞こえません。返事がないのではなく、聞こえないのです。返事があったとしても聞こえないのです。報道のヘリコプターが上空を飛び回って、そのプロペラの回る轟音で返事が聞こえないのです。「もうあかんかな。あきらめようか。」と父が静かに言いました。
その時妹が「生きている!返事があった!」と叫びました。妹は機転をきかせ、柱をドンドンドン!と叩いたようです。すると奥の方からトントンとたたき返す振動を感じたといいます。同じようにしてみました。確かに返事があります。近くにいた人たちに「生き埋めになっています。誰か力を貸してください」と声をあげると、数人の人が二階部分に上がり、床をのこぎりで切り、一階の様子を見てくれました。「ちょうどこの下にいるよ。生きてるよ!」と誰かが大声で教えてくれました。助けてくれた人の中には自分の家は燃えたという人もいました。

後で祖父に聞いたところ、祖父の寝ているベッドのそばに二階の柱や壁が崩れ落ちてきましたが、幸いベッドの上には空間ができていたようです。助け出されたのが昼頃なので、6時間ほど暗い空間に一人でじっと息を潜めていたようです。気丈な祖父はもし助け出されたときのためにとベッド周りに置いてあったズボンや上着を寝たままの姿勢で着たようです。救出してから30分ほどで祖父と父の思い出の詰まった家は跡形もなく燃えてしまいました。

水道も電気もない夜です。蝋燭の火で過ごしました。街はまだずっと燃えています。

やがて配給が始まりました。紙コップに家族のそれぞれの名前を書いてお茶を飲みました。
家の中はすべてのものをひっくり返したような状態です。それでも不思議なことに家族みんなで笑っている時間もありました。祖父譲りの気丈さか、父が「長い人生こんなこともあるよ。」と呟きました。そうかなとその時は知らん顔をしましたが、後で泣けて仕方ありませんでした。

震災の数日後、ペットボトルの飲料を買いに兵庫県の隣の大阪府に行きましたが、全く普通の生活が営まれています。スーパーにはたくさんのペットボトルが積まれています。そのギャップのすごさに驚きました。外国の戦争のニュースを見るっていうことは、こういうことなんだろうかと思いました。


色々なことを教わりました。
ヘリコプターの音がなければ、救えた命もあるんじゃないかなと残念な気持ちです。やはり震災報道は苦手です。
防災の教訓にするということ、震災を伝えていくこと、それも大事でしょう。でもそれよりもっと大事なことがあるように思います。
人は強いということ。そして人は人に優しいということ。震災の傷跡よりも、そのことだけを、今日も一日遊び疲れてスヤスヤと眠っている小さな娘にもいつか伝えたいと思っています。

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そして、2012年1月17日。
神戸の復興のまちづくりは去年完了しました。
震災を知らない人が神戸市の人口の1/3を占めるようになったそうです。
ニュース記事は、次の世代にどう継承していくのかが課題だ、と結んでいます。

継承も大事だと思いますが、やはりそれ以上に今大事なことがあるように思います。
東日本大震災でも絆の大切さが再認識されたように。

家族とは何か。支え合うとはどういうことか。自分は何を護りたいのか。
そんなことをこれからも考えていきたいと思います。

妻は今日、震災の話を一切せず、そっとしておいてくれました。

何気ない家族の笑顔が、平凡な僕を強い人間にしてくれます。

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